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第43話 決断の日①

Author: 雫石しま
last update Last Updated: 2025-11-13 03:00:32

SIDE雨宮真昼

私はニューグランドホテルのロビーへ向かい、ソファに腰掛ける。「来る、絶対来る!」と心で呟く。シワ一つないカッターシャツ、濃灰のタイトスカート、下ろしたての黒いパンプス……口紅は深い赤。二人を迎えるに相応しい出立ちだ。手には大型の茶封筒、仲睦まじい瞬間を切り取った画像が入る。軽いはずなのに、一人では背負いきれない重さ。裏切りが胸を抉る。

「いらっしゃいませ」とドアボーイの声。黒いタイトなワンピースの橙子さんがあたりを見回す。「誰かなんて…分かりきったことだわ」。脇に汗が滲み、口が乾く。離婚を決めたのに、右京が現れると思うと胸が痛む。裏切りを知っても、心のどこかに右京が残る。シャンデリアの光がチェスボードの床を照らし、真昼の決意と愛情の狭間を静かに包む。茶封筒の重さが、復讐の瞬間を待つ。

「でも、これでもうお終いにするのよ」と呟き、エレベーターホールへと向かう。橙子さんはエントランスのソファに腰掛け、大理石の柱を背中合わせに座る。ほのかに白檀の香りが漂う……彼女は背後に正妻がいるなど思いもよらないだろう。時計は午後二時四十五分。「これでお終い!」と心で繰り返す。鼓動が耳に煩く、組んだ脚を解くと小刻みに震える。茶封筒を握り締め、瞬間を待つ。白檀の香りが立ち上る。窺い見ると、ヘアワックスで整えた髪、剃った髭、焦茶のスーツにグレーのワイシャツ、赤茶の革靴……これまで見たことのない右京が、和かな笑顔で手を振る。「右京くん……」。五年間、あんな爽やかな笑顔を見せたか? 一緒に小洒落た出立ちで出掛けた

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